今年ももう、3月を終えようとしている。本年、元旦早々親父は逝った。行年91才だった。通常、年寄りが火葬されれば骨はボロボロになっている。しかし、親父の骨はシッカリと形を残し、その白い色にも艶があった。それなのに「何故、死んだんだ・・」。死んでも立派な親父だった。火葬中、私は天国に上る親父に、親父が好きだった日本酒「剣菱」を口にし杯を天に向け別れを告げた。
考えてみれば軍人だった親父と私の付き合いは短い。同じ屋根の下で生活したのは中学卒業までだ。高校は軍隊式スパルタ教育で全寮制の工業高校(電気科)に入れられた。高校卒業後は親父の余りの厳しさ(軍隊式スパルタ全寮制高校は規律、上下関係に厳しく何度も先輩からぶん殴られたが、それらを体験した上でも、親父は厳しく感じた)、煩さから、すぐ家を出て独立し200名ぐらいの電気・通信工事会社に入社した。子供の頃は気弱で神経質気味な私は中学卒業まで親父の厳しさに悩んだ。社会に出てからは親父の持つ気骨(絶対に人に屈しない)をDNAとし授かったのか、元来持つ私の性質で常に挑戦を続け、真実を追究し、真剣に全力を尽くし、どんな事にも逃げず(今回、初めて親父の死と言うものに対し逃げると言うか、受け入れられずにいる)に向上、進化を続けた。当然、人との摩擦は激しかったがその分鍛えられ、自分のやりたい様に生きてきた。現在まではそれで通し切っている。
親父はお爺さんが怠け者で働かず昼から酒ばっかり食らっていた事から、子供の頃から働き親を食わせた。当然、お爺さんがそんな事から、親父の子供の頃に両親は離婚した。自分で稼ぎ法政大学を卒業したビジネスマンとしての親父は実に周りの人間と上手くやっていた。50過ぎてからも仕事で必要となり難関の国家試験であるビル管理士を難なくパスした頭の良い人だ。親父は他人に対しては何も言わず優しかった。そんな苦労人の親父が私に対して異常に厳しかったのは、私の弱い面を焼き尽くす、叩き壊す私の人生を背負った、賭けた愛情なのだ。
親父の人生を見てみると子供時代からの労働、青春時代は戦争に身を捧げた(一式陸攻爆撃機搭乗員)。結婚してからは家族を養い、家を建て、お袋が今後、生きて行くに困らないお金を残した。正に務めを全うして来た人物だと思う。
私は親父から人は歩み(成長)続ける事が大事だと思った。「歩む」=「人が動く」。
すなわち「働き続ける事」に他ならない。